奈留島の美恵子先生~橋口美恵子さん~

奈留島に住んでいる方、奈留島に移住された方、奈留島にゆかりのある方に、奈留島でのくらしやお仕事、奈留島の魅力、奈留島の未来などについて、お話ししていただきます。

戦後まもなく奈留島の小学校、中学校の教壇に立ち、数多くの子どもたちの指導をされてきた橋口美恵子さん(旧姓:宮崎美恵子さん)にお話を伺いました。

 <先生になることを夢見た少女時代>         

教師を夢見た橋口さんは、15歳の時に大村市にある長崎女子師範学校(長崎大学教育学部の前身)に入学されます。しかし、戦時中という混沌とした時代。また、2年生の時に長崎に原爆が落とされ、勉強を出来る環境ではありませんでした。そんななか、待機命令が下り、故郷奈留島へ一旦戻ることになります。

 <女生徒の憧れの的 美恵子先生>

終戦後、奈留島を再び離れ、大村の師範学校へ戻ります。残りの教職課程を終え無事卒業した橋口さんは、晴れて教師となり新しいスタートを切りました。初めての赴任先は奈留中学校。赴任1年目にして1年生のクラスを受け持つことになりました。余談ですが、主人の父の叔父(81歳)は、橋口さんが初めて受け持った教え子のひとりでもあります。

専門教科は体操。1~3年生の女子へ指導するダンスも担当されていました。当時の体育祭では、女子のダンスは花形種目。曲選び(当時の曲目は、ドナウ河のさざなみ!)から振付まで行う橋口さんは、女学生の憧れの的。「先生というより、やさしい元気なお姉さんというイメージだったのではないかしら」と、少し恥ずかしそうに当時のことをお話ししてくださいました。

 <奈留島から福江島へ 教師生活30年の軌跡>

幼馴染でもあり、同僚でもある男性とご結婚された後は、奈留中学校(勤務年数)から奈留小学校へ移られ7年間教鞭を取った後、昭和32年にご主人の転勤に伴い福江へ渡り、保育園の先生として勤務されました。

妊娠、出産で数年間教職から離れられていた時期もありますが、昭和39年に福江幼稚園に復職。東京へ引っ越されるまで約20年間、五島の地で教職に携わっておられました。なんと福江出身の時津風親方は、橋口さんの教え子でもあります。橋口さんとお会いしたのが、ちょうど冬巡業五島場所の前でしたので、親方の幼稚園時代の写真を懐かしそうに見せてくださいました。

 <奈留島の自然に囲まれて過ごす時間>

昭和59年に息子さんご夫婦と東京へ移ってから約30年の月日が流れ、約4年前に故郷奈留の地へ戻られた橋口さん。体調を崩され療養が目的の帰郷でしたが、奈留島の自然に囲まれながら懐かしい空気を感じ、体調も少しずつ回復し、今ではゆったりとした時間を過ごされています。

 <みんなの美恵子先生>

橋口さんは、ご自身が関わられた70年前の生徒さん達をほとんど覚えており、名前を伝えると、「あ~〇〇ちゃんね!」「そうそう、○○君!当時はね~」と当時の話をしてくださいます。

「私のことは忘れていると思うのだけどねぇ」と橋口さんはおっしゃいますが、お義父さんやお義母さんと同世代の奈留中出身であろう方に、橋口さんのことをお話しすると、「美恵子先生ね!」と、誰もが懐かしい表情をされるのです。

そんなみなさんのお顔や思い出話を伺うと、橋口さんは生徒さんにとっても慕われていたのだな~と感じます。もちろん、今も「美恵子先生~!!」と教え子さん達に慕われる存在です。

 <橋口さんが願う奈留島の未来>

奈留島の未来について伺ってみると、少し元気のない表情をされたのが印象的でした。子どもたちの数も減り、学校がどうなっていくのか心配だと話されます。ただ、今実施されている島留学制度を島外の人に認知していただくこと、そして留学希望の子供たちを受け入れ、奈留島全体で盛り上げていくことが、奈留島の明るい未来につながるではないかしら、と微笑みながらお話ししてくださいました。

 御年88歳とは思えないほど、声にハリがあり、いまも現役の教師といっても疑わないほど。いつまでも、奈留島の美恵子先生として、お元気で過ごしていただきたいと強く強く思いました。

 

 

行って戻って奈留島
「mikke(ミッケ)」

長崎県五島市の真ん中、豊かな自然と人の宝庫です。ぜひ一度魅力を感じに来てくださいs!一瞬でハマります。

ABOUTこの記事をかいた人

東京・葛飾区より、五島列島の奈留島に移住。奈留島で島のためにできることを模索しながら、mikkeのライターとして記事を書いています。